折口信夫ー未来で待つ人

 日が暮れると南の空に月が昇っていた。ちょうど上弦の月であった。
 NHK教育テレビの「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」で「折口信夫ー古代から来た未来人」の第四回の放送を観た。最終回で「未来で待つ人」というタイトルで奈良県當麻寺(たいまでら)から、中沢新一さんが中将姫像のある中之坊の庭を眺めながら、折口信夫の小説『死者の書』について語ってゆく。
 まず、この死霊というものを折口がどのように考えていたのか。中沢さんによると、《死霊には倫理観は全然ない》とか、俤人(おもかげびと)であるという。そして、《死霊の心の動きは人間の無意識の中で働く流動的な心》であるとも。
 縄文時代の人々は死者の世界と接近していた。ところが、都市生活の出現で古代の死霊のあり方が動揺してきた。そのために日本人は新しい通路を見つけなければならなくなった。
 そういう観点から折口は、仏教が日本人にどう根付いていったかを探ろうとした。
 冬至夏至という時期は昼と夜の長さが極端にアンバランスになる。
 春分秋分には昼と夜の長さが同じになる。バランスが取れている状態である。
 ちょうど仏教に中庸という言葉があるが、《世界がバランスを実現した時死者の霊がおだやかに通路をつくる》のだと言う。
 仏教の受容というのは、《あの世や霊の問題を新しい思想レベルへ持って行く》ことになった。折口は、そこに断絶ではなく大きい一本の連続した思想の流れを見ていたのだ。
 この難問を解決する道具として仏教を利用した、と中沢新一さんは語られていた。
 折口は、仏教受容の流れの中でも、《古代の日本人の心、無意識の心のあり方こそ重要》とみなしていた。
 それは、《保守的な革命、超古代的な革命》であったとも。
 終わりに、中沢さんは『死者の書』の描こうとしたもの、死者の霊が集まる「隠国(こもりく)」のことなどに触れて、《日本人の無意識》は人類の巨大な無意識につながっているのだ、と。
 折口信夫は、自分のはるか前方を歩いていて、今も未来で私たちを待っているように思われます、という中沢新一さんの言葉が印象に残った。
 ブルーノ・ムナーリの『きりのなかのサーカス』に似たところもある『闇の夜に』を開く。(原題:nella notte buia)。訳者は藤本和子さんなんだね。