『屋上登攀者』

 22日は、二十四節気のひとつ大暑である。
 小暑のころ梅雨明けの時期だが、今年は17日に梅雨明け宣言が出た。
 小暑のころ夏ジャガイモを掘り、スイカが出始める頃という。
 大暑のころ、クマゼミが鳴き初め、ヒグラシ鳴き初め。
 ハス花咲き初め。暑気はなはだし。
兎も片耳垂るる大暑かな」(芥川龍之介
 古書店の均一本で藤木九三の『屋上登攀者』(岩波文庫)を購入。
 解説・池内紀
 

 藤木九三は明治二十年(一八八七)、京都府福知山に生まれた。京都三中を出て上京、早稲田大学予科から英文科に進んだが、中退して明治四十二年(一九〇九)、東京毎日新聞社に入社。同年、やまと新聞に移り、大正四年(一九一五)、朝日新聞社に転じた。三年後、大阪本社に転勤になり、大正八年(一九一九)、神戸支局長になった。(中略)
大正十三年(一九二四)、仲間と岩登りの研究会、ロック・クライミング・クラブを結成、頭文字をとってR・C・Cと命名した。(中略)
 藤木は英語がよくできた。ウィンスロープ・ヤングの『山登り術』やジョージ・エイブラハムの『岩登りの基礎』を参考にして、大正十四年(一九二五)『岩登り術』をまとめた。全八十六頁で、R・C・C事務所発行。わが国はじめての岩登りのテキストである。(中略)
 翌十五年五月、神戸を出発。シベリア鉄道でヨーロッパに赴き、パリに住んだ。六月から九月にかけてアルプスのピエ・ベラード、テート・ド・チュレー、モン・ブラン、ワイス・ホーンなどの岩壁を登攀。ヨーロッパ滞在は、ほぼ一年に及んだ。勤め先を休職して出かけたらしく、乏しいふところと相談してパリの住居を定めた。「巴里(パリ)に在(あ)りし日の私の横顔」と添え書きされた詩「屋上登攀者」に見るとおりである。(中略)
 藤木九三は四十四歳のとき、樺太の突岨(とつそ)山に登った。二年後の七月、満蒙学術調査研究団に特派員として随行。昭和十年(一九三五)、京大山岳部の冬季白頭山遠征に報道記者として加わった。翌年一月、四十八歳のときに石鎚山冬季初登攀をやってのけた。
 その後はもっぱら、書物によるよきガイド役だった。『屋上登攀者』のほか、『雪線散歩』『雲表縦走』など、優れた多くの山の本をのこした。(中略)
 R・C・Cが多少とも権威化したとき、さっさと組織を解散したように、山の世界に深くかかわったが、ついぞ権威にもボスにもならなかった。(中略)
 昭和四十五年(一九七〇)、死去。八十三歳だった。

屋上登攀者 (岩波文庫)

屋上登攀者 (岩波文庫)