『キンスキー、我が最愛の敵』

キンスキー、我が最愛の敵

 「ヴェルナー・ヘルツォーク監督特集」から、映画『キンスキー、我が最愛の敵』(1999年、ドイツ、イギリス、95分、カラー)を観た。観客は50人ほど。
 今回のヘルツォーク監督特集は、『アギーレ/神の怒り』(1972年)→『ノスフェラトゥ』(1978年)→『フィツカラルド』(1982年)→『キンスキー、我が最愛の敵』(1999年)の順に上映された。
  出演/クラウス・キンスキー、ヴェルナー・ヘルツォーククラウディア・カルディナーレ

 パンフレットから引用すると、
 

ヘルツォーク監督が、多くの自作に起用した俳優クラウス・キンスキーとの長年にわたる交流を語ったドキュメンタリー。キンスキーの撮影現場での数々の奇行やその偉大さが、様々な証言により明らかにされる。

 先日の『アギーレ/神の怒り』という映画以外の『ノスフェラトゥ』、『フィツカラルド』の二本は公開時に観ている。(この二本は、『キンスキー、我が最愛の敵』に引用されている。)

 『キンスキー、我が最愛の敵』という映画は、ヴェルナー・ヘルツォークによるクラウス・キンスキーという俳優をめぐるドキュメンタリー映画であった。
 冒頭、ドイツのミュンヘンにある一軒の家をヘルツォーク監督が、訪れるところから映画は始まる。
 戦後ヘルツォーク一家(母と兄弟との四人)が、ドイツのミュンヘンで部屋を間借りして住んでいた家である。
 その部屋は狭い部屋で、今は家の持主が変わり、部屋の間取りも変わっている。
 同じ家の別の部屋に、当時、同じく間借りしていたのが、なんとクラウス・キンスキーであった。
 これが最初の二人の出会い。
 キンスキーはそのころから癇癪持ちで、気に入らないことがあると大暴れをしてドアに突進して壊し、部屋の調度品を粉々にしてしまう癖があった。いつまでも大声で張り叫ぶ奇行があった。
 浴室に閉じこもり便器などを粉々に壊すのだった。
 度肝を抜かれるような乱暴狼藉ぶりを見せていた。
 後に、ヘルツォークは監督になってからミュンヘンで演劇をしていたクラウス・キンスキーを映画に役者として使ってみたいと思うようになった。
 というのは、昔見た戦争映画に出演していたキンスキーの演技に何かこころ引かれるような魅力を感じていたからだった。
 『アギーレ/神の怒り』にキンスキーが初めて出演する。
 険しいアンデスの山岳の山道をスペインの探検隊の一行が下って来る場面が映される。(映画からの引用)
 この映画でのロケ現場でクラウス・キンスキーがスタッフを罵倒する光景をフィルムに撮っている。
 それらのキンスキーのエネルギーあふれる爆発ぶりに圧倒される。
 恐るべき奇癖ぶりである。アンデスの先住民らの出演者や撮影スタッフらも、ロケ現場でキンスキーの言動に振り回される。迷惑な存在といった風情である。
 『アギーレ/神の怒り』の撮影にあたって、筏で河を下る。 
 常に危険と隣りあわせで、その中を監督はキンスキーをなだめすかせるようにして、困難を乗り越え偶然に助けられながら映画を撮って行った。
 『ノスフェラトゥ』では彼はドラキュラ役を、共演者は女優のイザベル・アジャーニ
 蒸気船が山を越える映像で圧倒的な迫力ある『フィツカラルド』、その共演者はクラウディア・カルディナーレ
 イザベル・アジャーニクラウディア・カルディナーレへのインタビューを通じて、クラウス・キンスキーのロケ現場での当時の様子を回顧的に描いている。(意外と紳士ぶりを見せている) 
 キンスキーが亡くなったのはサンフランシスコの自宅でだった。
 ラスト、蝶がクラウス・キンスキーの身体にとまっている光景で、蝶が肩にとまっている。手にとってみたり、ひらりと蝶が離れるが、すぐに身体にまとい付く。また手に蝶をとまらせたりする。 
 蝶と対話するかのように、そっとした動きで蝶をあつかうキンスキーの手つきが印象的であった。

 ヘルツォークは、映画のロケ地ペルーのアマゾン奥地を数十年ぶりに再訪問する。
 ロケにエキストラで出演したインディオの人たちと再会する。
 ロケ地のひとつペルーの遺跡都市のマチュピチュを再び訪れる。
 ハリウッドの映画にあるような絵葉書的観光のマチュピチュを撮らないで、別のやり方で撮ったアンデスの山岳地帯をスペインの探検隊が山道を下って行く光景に演出したのが、結果的に『アギーレ/神の怒り』の映画にとって良い選択だった。

 左がヘルツォーク監督、右がクラウス・キンスキー。