「裸の少年」のこと

 山田稔著『天野さんの傘』(編集工房ノア)を読む。本の装幀は林哲夫さんである。
 二〇一三年から二〇一五年にかけて書かれた未発表の五篇を含めて十一篇を収める。
 
 その中で未発表の「裸の少年」という文が特に印象に残る。
 冒頭、風呂場の洗面台の鏡に映っている裸の姿を眺める「私」は、その裸の姿はどこかで見たことがあると思うのだった。
 その思い出というのは、昭和十九年の十二月はじめ、当時中学二年生だった「私」は、もうひとりの二年生のTとともに、三年生の受験生にまじって江田島海軍兵学校予科受験に出かけた。
 筆記試験と身体検査をうけたが、二人とも不合格だった。

 一部引用すると、

 《そしていま八十をすぎて、何十年ぶりかであの裸の少年の写真をながめていたとき、あらためて私は自問したのである。一体、自分の「軍国少年」とは何だったのか。
 私はTのことを思い出した。むかし受験のため、いっしょに江田島に渡ったもうひとりの二年生のことを。彼はいま、当時のことについてどんな思いをいだいているのだろう。はたして憶えているだろうか。
 Tがいまも京都市内に健在であることを知ると私は彼に手紙を書き、むかし兵学校を受験したときのこと、志願の動機などをたずねてみた。
 すぐに返事がとどいた。彼は私よりもたくさんのことを憶えていた。私たちが近くの民家に分宿したこと、翌朝「全員起こし、五分前」の掛け声で一斉にとび起き、兵学校まで駈け足、グランドで、ライトによるモールス信号の練習をさせられたことなど。
 海兵志願の動機については、つぎのようにのべていた。戦争がつづくかぎりはどのみち軍隊に取られるのだから、そのときは〈幹候〉(幹部候補生)か〈海兵〉がいいと考えていたような気がする。岩田豊雄獅子文六)の新聞小説『海軍』の影響もあったことは確だ、と。
 軍のエリートコースを選んだという点で私と似ていた。『海軍』は私も読んで影響をうけたにちがいない。これは全国の少年についてもいえることだったろう。私の場合は生れ育った北九州の港町の影響がつよかったと思う。軍隊といっても海軍のことしか念頭になかった。》
  72〜73ページ

天野さんの傘

天野さんの傘