隠居学の「講談全集」「落語全集」

 今月の4日の朝日新聞の読書欄「ニュースの本棚」に、加藤秀俊氏の「梅棹忠夫再読」が掲載されていた。再録すると、

 生態学という学問は世界の姿をあるがままにみる学問である。そこには分類学も系統論も目的論もない。梅棹さんといっしょに、わたしはしばしば大徳寺の僧房(そうぼう)で和尚との問答に参加した。荘子についても語った。
 「あるがまま」をうけいれる梅棹生態学は、どうやら東洋の虚無主義と通じるところがあったようなのである。
 その加藤秀俊氏の『隠居学』を再読しています。
 「まえがき」を読むと、加藤氏は、小学校五、六年生のころから「講談全集」「落語全集」のたぐいを片っぱしから耽読し、ラジオでもしばしば落語を聴いて「隠居」という存在に親しんでいたそうで、この本について、
 《でも「学」というものに大系だの目的だの、あるいは方法論などというたいそうなものなんかありゃしない、というのがいまのわたしの心境であるから、まあこれでもよかろうと観念した
 《一見コマギレの知識とみえたものも、じょうずにつなげてゆくとひとつのオハナシになる。わたしたちの知的作業と呼んでいるものは、畢竟(ひっきょう)するにそういうオハナシ製造のいとなみなのではないのか。この「隠居学」は、ひとりの隠居、あるいは隠居志望者が折にふれてでっちあげたいいかげんなオハナシ集なのである。どうぞ、そのつもりでおよみください。
 副題は、「おもしろくてたまらないヒマつぶし」。
 読んでいると、「忘れる自由」に、

 《ついでながら、このなつかしい「講談全集」全十二巻揃いというのを神田の古本屋でみつけたときは、さすがに胸がふるえましたねえ。もちろん、その場で買った。いまでもときどき読んでいる。伊藤先生の挿絵もなつかしい。奥付をみると昭和四年刊、とある。わたしの生まれるまえから日本にはこういう名著があったのである。》  85ページ

 
 《くどいようだが、こういうのを(引用者注記:日本の英雄豪傑)まず、「立川文庫」でよみ、やがて講談社の「講談全集」でまとめてよんだ。このほか、じつはこどもむけに「少年講談」というのがあって、これを愛読して毎日をすごしていた。でもこっちは「いい子」のための教育的配慮があって、あんまりおもしろくなかった。なにしろ、むずかしいことばを知りたくてたまらない時期だから、もっぱらこっそりとおとな用の「講談全集」を片っぱしからよみまくった。伊藤幾久造というかたの挿絵があちこちにあって、「あわや落花狼藉」なんていう表現もこのころにちゃんとおぼえた。》 84ページ

 以上は、「講談全集」についてであります。
 「落語全集」については、岩波少年文庫の50年『なつかしい本の記憶』(岩波少年文庫別冊)に、池内紀池内了の「耳と目で読む」という対談に、興味深い談話が見られます。