『お早く御乗車ねがいます』を読む、「可部線の思い出」

 「図書」10月号が800号記念で、「『図書』八〇〇号と阿川弘之先生」(関川夏央)を読む。

 《「汽車ポッポ」好きで知られた阿川さんが、最初の鉄道エッセイ集『お早く御乗車ねがいます』を刊行したのは五八年七月、三七歳のときで、こんなものが本になるかな、と渋る先生を説得したのは中央公論社の編集者、二六(大正一五)年生まれで、七歳以来「時刻表読者」という年季の入った宮脇俊三であった。
 この本を読むと、阿川先生は汽車に乗るのは大好きだが、鉄道知識の収集には興味がないのだとわかる。マニアにありがちな「党派性」がなく、したがって「オタク」になれない。また「国鉄(のちのJR)偏重」という「ナショナリズム」からも自由で、やがて世界のどんな汽車でも乗りさえすれば機嫌がいいことを証明した本『南蛮阿房列車』を出される。》  12ページ

 中公文庫の『お早く御乗車ねがいます』と『空旅・船旅・汽車の旅』の解説は、関川夏央氏である。

 『お早く御乗車ねがいます』を読むと、阿川さんは「可部線の思い出」(昭和二九年七月)に、昭和十何年かに中国山地の雲月(うずき)山、八幡高原、三段峡、十方山、恐羅漢(おそらかん)山方面へ中学、高等学校の頃、広島市内からスキーやハイキングに出かけた時に紙屋町からバスを利用して行っていたそうだ。その思い出を、国鉄(現在のJR)の可部線をめぐる敷設の経緯やその沿線の思い出とともに書いている。

 島根県境の雲月山(九一二メートル)へ、山登りに一緒に行った仲間の加計君について阿川さんは記している。
 《(前略)私たちはこの山の麓で土地の娘さんたちから、本当の手打ちのぶつぶつした黒い蕎麦を山葵(わさび)醤油で御馳走になったことがあった。加計君が、その帰りのバスの中で盲腸炎を起した。》 140ページ

 《この加計君のお父さんの加計正文氏は、鈴木三重吉の親友で、昔出た三重吉全集には、三重吉が加計正文に宛てた広島言葉丸出しの手紙や、猥談だらけの手紙が沢山収められている。素通りばかりしていたが、加計は私の憶い出の中ではそういう町である。》140ページ

 阿川さんは加計君の学友であったのですね。