評伝『三文役者の死』

 来月(5月)の新刊に、御園生涼子著『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』(東京大学出版会)が出る。

 11日、午後より雨あがり晴れる。雨上がりの桜の花はあまり散っていない。

 新藤兼人監督の映画『生きたい』(1999年、近代映画協会、119分、カラー)に出演はしていなかったけれど、新藤映画でお馴染みのバイプレーヤーだった殿山泰司との交友五十年の新藤監督による書き下ろし評伝『三文役者の死』を読む。

 「あとがき」に、
 

かれは、いろいろジグザクとけんめいに生きたが、エライ人ではなく、かれの口をかりるならば、ペエペエの三文役者だったのである。だがわたしには大事な人だった。
 この本は、小野民樹編集氏のすすめによって生まれた。

 ところどころ、新藤兼人自身のエピソードが語られている。 
 
 なにしろこの頃、昭和九年から十年というのは映画の黄金時期、われもわれもと映画俳優志願者は撮影所に門前市をなす有様で、一大決心したもののタイちゃんの思うようにはことは運ばない。かくいうわたしも、昭和九年、ちょうどタイちゃんと同時期、助監督たらんとして尾道から京都太秦へのぼったものである。  26ページ

 昭和初期はエログロ・ナンセンスといわれた時代で、モガ(モダンガール)、モボ(モダンボーイ)が銀座街頭を闊歩し、ダンスホールが雨後のタケノコのごとく輩出、西条八十の「東京行進曲」が、恋の丸ビルあの窓あたり、泣いて文かく人もいる、ジャズで踊ってリキュールで更けて、明けりゃダンサーの涙雨、と歌った。若い男女は銀ぶら(一丁目から八丁目まで片側をぶらぶら歩いて反対側を戻ってくる)ののち、ダンスホールで夜明けまで踊り狂った。  27ページ

 この頃、松竹蒲田撮影所は最も充実した時代で、島津保次郎清水宏五所平之助小津安二郎、など名監督が揃い、女優に田中絹代、川崎弘子、桑野通子、高杉早苗、逢初夢子、高峰三枝子水戸光子。男優に大日方伝、上原謙佐分利信、藤井貢。バイプレーヤーには、斎藤達雄、河村黎吉、坂本武、日守新一、三井秀男、磯野秋雄飯田蝶子など。(中略)当時ここは東京府荏原郡蒲田村で周囲は田圃ばかりだった。  28ページ

三文役者の死―正伝殿山泰司 (同時代ライブラリー)

三文役者の死―正伝殿山泰司 (同時代ライブラリー)

映画と国民国家: 1930年代松竹メロドラマ映画

映画と国民国家: 1930年代松竹メロドラマ映画