丸谷才一論ふたつ

 今月の『群像』2013年3月号に菅野昭正氏の丸谷才一論が掲載されています。
 「小説の夢を追いつづけて」というタイトルですが、副題は「丸谷才一追悼のために」とあります。
 末尾に菅野昭正氏が書いている次の箇所にうなずくところがありました。
 引用すると、
 

(C) 戦争――未完の遺作となった『茶色い戦争ありました』の断片を一読し、一九四五年八月十五日の混雑を極めた汽車の車中風景が、あの時代を髣髴(ほうふつ)とさせるように描かれているのに出会って、すこし意外な気がすると同時に、なるほどと私には感銘をふかくするものがあった。丸谷才一の多くの小説に戦争の記憶に触れる箇所は出てくるけれども、『笹まくら』を別にして、戦争がまっこうから大きな意味をもたせるように見える部分は、まず見当らないはずである。しかしこの小説家は、戦争を厭いつづけながら、半年ほど軍隊生活の苦役を強制された若者として、戦争の時代を生きさせられた記憶を消してはならないと考えていたのではないか。遺稿『茶色い戦争ありました』は、そんなことを告げてくれる証拠物件であるように思われてならない。戦争の記憶からすっかり解放されきってはいない小説人物たちのなかに(たとえば『裏声で歌へ君が代』の梨田)、戦争の影がどんなふうに落ちているか、それは丸谷才一の小説の投げかけてくる大事な問題のひとつであることに、あらためて切実に思いあたるのである。  221ページ

 たしか、丸谷才一さんが、大岡昇平から聞いた話で近衛兵であった大岡さんの連隊はビンタというものがなかったということを強調されて対談で話されていた記憶があるのですが、大岡さんと違って丸谷さんの軍隊生活では、それがあったということなのでしょう。
 菅野昭正氏のいう「そんなことを告げてくれる証拠物件」を、丸谷さんは作品の底流にそっと忍ばせて作品をつくっていたような気がします。
 「だらだら坂」や「贈り物」などを読むと、「そんなことを告げてくれる証拠物件」を感じます。
 その辺の事情を、新刊の川本三郎著『そして、人生はつづく』(平凡社)でも指摘していました。
 「丸谷才一 徹底した雅びの人。」というエッセイで、丸谷才一論が展開されています。( 初出:「東京人」二〇一二年十二月号) 
 

 丸谷才一は大正十四年(一九二五)生まれ。奇しくも三島由紀夫と同年になる。昭和二十年三月、十九歳のときに召集を受け、山形の連隊に入営している。戦争が長びいていたら戦地に送られたかもしれない。
「徴兵忌避者としての夏目漱石」(『コロンブスの卵』)という異色の漱石論のなかで、氏は、戦時中、自分は「軍人嫌ひ」だったと言っている(その点では、永井荷風とよく似ている)。氏によれば、「僕の少年期の主題は国家と軍隊への拒絶、虚(むな)しい拒絶であったやうに思ふ」。
『笹まくら』の孤独な逃亡者の姿は、「軍人嫌ひ」の若き日の自分に重なると言えるだろう。その姿はまた『たつた一人の反乱』の機動隊に立ち向かう刑務所帰りの老女の姿にも重なる。
 丸谷才一は直接的な政治談義をすることはまずなかったが、「軍人嫌ひ」は一貫していた。いまこのことがあまり語られないが、改めて確認しておきたい。  273ページ

そして、人生はつづく

そして、人生はつづく