雨上がりの公園のバラ。花の表面が雨のしずくで濡れている。
3月のミシェル・ピコリ追悼特集で上映された映画にジャン=ピエール・メルヴィル監督の『いぬ』(1962年)、ジャン=リュック・ゴダール監督の『軽蔑』(1963年)、ルイ・マル監督の『五月のミル』(1989年)があった。
『軽蔑』にフリッツ・ラング監督が出演していて、自作の映画『M』の作品名を語っているのだった。この箇所は映画史的にも面白かった。
というわけで、最近は映画本をいろいろ読んでいる。
たとえば、『山田宏一映画インタビュー集 映画はこうしてつくられる』である。
目次
クロード・ルルーシュ
映画はキャメラだ
アラン・レネ
スペクタクル(見世物)としての映画の宿命
ジャン=リュック・ゴダール
映画は撮れるものなら、どこで撮ったっていいではないか
バルべ・シュレデール
エリック・ロメールとともにーー「六つの教訓物語」はこうして生まれた
ジャン=ポール・ベルモンド
『勝手にしやがれ』はこうしてつくられた
アレクサンドル・トローネル
プレヴェール/カルネ(詩的リアリズム)からビリー・ワイルダー(ハリウッド)まで
ピエール・ブロンベルジェ
ジャン・ルノワールからジャン=リュック・ゴダールまで
ルイ・マル
ジャズ、映画、ヌーヴェル・ヴァーグ
クロード・ミレール
『小さな泥棒』ーーフランソワ・トリュフォーを追いかけて
サミュエル・フラー
批評家は地獄へ行け
イヴ・ロベール
独断と孤高の芸術家よりも単なるユーモア作家としてみんなといっしょに笑い合えるほうがいい
サム・レヴァン
スチールマンとして、肖像写真家としてーールノワールからBB(べべ)まで
ルネ・リシティグ
失われた映画を求めてーー映画の編集と修復
シャルル・アズナヴール
ヌーヴェル・ヴァーグと即興-ー『ピアニストを撃て』はこうしてつくられた
マドレーヌ・モルゲンステルヌ
『あこがれ』から『大人は判ってくれない』へーーフランソワ・トリュフォー監督のデビューまで
キム・ノヴァク
めまいのようにーー女優とセックス・シンボル
ラウル・クタール
ゴダールの映画術ーーヌーヴェル・ヴァーグと映画の革命
映画は語るーー後記に代えて
索引
見返しに、次のようにある。
《ラウル・クタール、アンナ・カリーナから
ゴダール、サミュエル・フラーまで、
19人の映画人に著者が「映画作りの秘密」について、
真剣に、ときに親密に、機微にわたって聞き、
採録された最高に面白いインタビュー。
これは稀有な記録である。》
巻末の「映画は語るーー後記に代えて」から一部引用。
《これは私の二冊目の映画インタビュー集です。一冊目の映画インタビュー集は「映画とは何か」(一九八八年、草思社刊)という大げさな標題になってしまったのですが、私としては単純に、ずばり、映画インタビューとは映画について語るのではない、映画が語るのだ、と言いたかったのです。今回もそのつづき、延長として「映画はこうしてつくられる」という題名にしました。「生きた映画史」の証言でもあるからです。(中略)
私にとっては、何冊かの映画評論集よりも重要な、心のこもった集成になります。》