輸送船が出た港

 今月の新刊で堀川惠子著『暁の宇品』を読んだ。

 陸軍船舶司令部、暁(あかつき)部隊の跡地と旧陸軍桟橋を訪れた。船舶司令部跡は公園になっています。陸軍桟橋の跡地は埋め立てられて宇品波止場公園となり、陸軍桟橋の一部が保存されていました。

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 古山高麗雄著『片乞い紀行』の「輸送船が出た港」につぎのように書かれています。

 《宇品に行ってみようと思った。
 あの宇品が、広島市のどのあたりにあったか、それとも、市の外にあったのか、忘れてしまっている。むろんそんなことは、地図を見ればすぐわかるわけだが、地図好きの私が、広島の地図を持っていない。で、交通公社の時刻表についている索引地図をひらいてみたが、宇品という文字は出ていない。
 かつては著名な地名だったが、終戦と共に消えてしまったのか? なにしろ、あれは、戦争に縁の深い地名だったから。宇品と言えば輸送船、輸送船といえば宇品。あるいは、佐世保など、輸送船の出入りする港は、ほかにもあったのだろうが、私は、兵隊が外地に送られるときは、宇品から出港するものだと思い決めていた。そして、自分が兵隊にとられて南方に送られたとき、実際に宇品で輸送船に積み込まれたので、宇品と輸送船とは、私の心の中で、ますます固く結びついてしまった。》

 《陸軍一等兵の私が、そこから輸送船に積まれて南方に送られたのは、昭和十八年の五月だった。仙台から広島まで汽車で来て、プラットフォームのない所で降りた。だから正確に言えば、広島駅から歩いたわけではないが、あれは、駅からそう遠くない場所であったような気がする。
 そこから宇品まで、鉄砲を担いで、雑嚢と水筒を羽交にかけて、ズックの背嚢を背負って、歩いた。それほどの道のりではなかったような気がする。そのときのことはしかし、断片的にしか憶えていない。そしてその断片は、ごく少量である。仙台の歩兵第四連隊を出発してからのことを思い出そうとしてみたが、いくらも憶えていない。》