風呂の楽しみと宇野浩二の『苦の世界』

アサガオ

 多田道太郎の『遊びと日本人』1980年刊(角川文庫)を読んでいると、「風呂の楽しみ」を言うために、宇野浩二の『苦の世界』という小説から、ながながと引用している。

 私の好きな小説の一つに宇野浩二の『苦の世界』がある。そのなかでもとりわけ「流し場に昼寝する二人の男のこと」のくだりが好きである。どこがおもしろいのか、自問自答してみるが、うまい答えはない。ただ「わけもなく」おもしろいのである。こんなことでは批評にはならないけれども・・・・・・。
 ともかく一人の男がいてヒステリーの細君に苦しめられている。夏のある日、銭湯に出かける。客がおらず、ながし場の板の間はほとんど乾いている。ここでだれにもじゃまされず昼寝したらどんなに愉快だろうと男は思う。  74〜75頁

 男は、裸のからだを銭湯の板の間に横たえ、いつの間にか眠りにおちいる。

 「どのくらいのあいだ眠ったかはおぼえていないが、ふと目をさましたしゅん間、私ははッとした。それはほんの一しゅん間だったが、自分の姿が、すぐ前に鏡があって、うつっているのではないかと私がうたがったのも無理ではなかった。そこに私と平行して、私をまねて、私とむきあって、昼寝をしている人間を見いだしたからである」
 世の中にはおなじような男がいるものだ。この男も、何かがかなわなくて、その何かから逃げだして、そして銭湯にやってきて、そこにごろりと横たわって快く寝ている男を見出し、自分もそこにごろりと横たわったのであろう。しかし、主人公にしてみれば、はじめぎょっとしたのも無理はない。まるで自分が鏡に映っているぐあいにして、見知らぬ男が昼寝しているのである。そのおどろきが、やがて、戦友とか同志とか、大げさにいえばそんな感じに変わってゆく。そのあたりの推移がなんともおかしく、おもしろい。  75頁

 と、多田道太郎は書く。

 宇野浩二の描いた風呂の快は、私たちの「風呂好き」のどこか機微にふれているようにおもえるのだ。  76頁

 関東で銭湯、関西で風呂屋というあの場所は、解放感の味わえるところであるとして、日本やヨーロッパの風呂の起源など述べた後、江戸っ子と上方人(かみがたじん)の湯への入り方で、多田道太郎は江戸っ子の「意気」に首をかしげる

 このあたり、日本文化論としてははなはだ自信なげであるが、私はやはり心の底では、「する」遊びよりも「なる」遊びのほうが、より根源的なのではあるまいかと思っているのだ。パチンコをする、ボウリングをする遊びに熱中してレジャー産業を活発ならしめ、いよいよ忙しい生活のリズムをおのれに課すよりも、風呂につかってのんびりふわっとなるほうが、より根源的というものではないか。  81頁