カエルと加藤秀俊の『隠居学』

池を背にカエル

 台風は通り過ぎた。アサガオの花がしな垂れていた。午前中は雲が多かったが、ゆっくり晴れ間が見えてきた。気温が上がる。
 夕方、公園のハスと睡蓮の池へ寄り道してみた。ハスの葉はところどころで、茶色に枯れたものがあった。ハスの実は水面へ落下したのか、一つも見かけなくなっていた。
 睡蓮は水面から高く伸びていないので、以前とあまり変化がみられない。睡蓮の葉はつやつやして、水面に密集している。
 カエルはコンクリートの縁に池の方を向いてちょこんと座っていた。池をぐるりと歩いて回る。睡蓮の葉が密集しているあたりに牛のような鳴き声がする。先日、通りがかった人から「ウシガエルですかね?」と尋ねられた鳴き声だ。
 耳をそばだてて聴く。うーん。この鳴き声は牛が鳴いているように聞こえる。
 
 加藤秀俊の『隠居学』2005年刊、(講談社)を読む。「おもしろくてたまらないヒマつぶし」と表紙にある。
 加藤秀俊の本では、『独学のすすめ』(文春文庫)、『生きがいの周辺』(文春文庫)などに親しんできたが、この『隠居学』は、『生きがいの周辺』のなかのエッセイ、「仕事と人生」の続きのようなエッセイとみた。
 ケイタイ電話についての考察が興味を引いた。それと、終わりをバートランド・ラッセルの『怠惰への賛歌』からの引用で締めくくっている。

 ひまをうまく使うということは、文明と教育の結果出来るものだといわなければならない。生涯、長い時間働いて来た人は、突然することがなくなると、うんざりするだろう。だが相当のひまの時間がないと、人生の最もすばらしいものと縁がなくなることが多い。多くの人々が、このすばらしいものを奪われている理由は、ひまがないという以外に何もない。馬鹿げた禁欲主義、それはふつう犠牲的のものであるが、ただそれに動かされて、そう極端に働く必要がもうなくなった今日でも、過度に働く必要のあることを私たちは相かわらず主張し続けている。

 このエッセイは1932年に発表されたバートランド・ラッセルの文章。
 
 『ユリイカ』2005年8月号での四方田犬彦坪内祐三の対談、「雑文家渡世」で語られていた安原顯については後で書いてみよう。