須賀敦子の『塩一トンの読書』とフェリーニの『アマルコルド』

蘇利古

 夕方、南西の空に宵の明星の金星が明るく輝いている。高度は目測で二〇度くらいの高さだろうか。地球へ大接近している火星の方はどうかな。数日前から東の空を見上げてさがしていた星、火星が晴れわたった夜空に赤くオレンジ色がかって輝いていた。東の空で高度は三〇度くらいだ。時刻は八時ごろの位置。月は出ていなくて、それだけ火星の明るさが目立つ。一瞬、飛行機の明かりかと見間違うほどの明るさだった。しばらく火星を眺めていた。
 先日、フェデリコ・フェリーニの映画『アマルコルド』(邦題、『フェリーニのアマルコルド』のことにふれてみたのだが、須賀敦子の『塩一トンの読書』(河出書房新社)を読んでいると、この本の「わがこころが愛するものへ」で、

 先日訃報がとどいたフェデリコ・フェリーニの『アマルコルド』は、季節と時代と地方性の記号をこのように満載して幕をあける。綿毛のことをマニーネと呼ぶのも、そもそもアマルコルドというタイトルそのものも、たいていのイタリア人にはなにを指すのかはっきりわからない方言なのだけれど、「こころが愛するもの」という語源を想像して、なるほど故郷のことにちがいない、とほぼ察しはつく。それにしても、「こころが愛するもの」とはなんという直截的な表現だろう。まったく過激でセンチメンタルで芝居気たっぷりで大げさで、それがいかにもロマーニャ人らしい。そんなふうにもロマーニャ人でないイタリア人のおおかたは、思う。
 フェリーニは一九二〇年にロマーニャ地方のリミニというアドリア海岸の町で生まれている。ムッソリーニもおなじ地方の生まれだといえば、この地方の人たちの政治好き、芝居好きがすこし理解されるかもしれない。じっさい、ロマーニャ人だったあの男のとんでもないバカ芝居に、国ぜんたいが巻き込まれたのがイタリアのファシズムの本質だったという意見を、何人かのイタリア人から聞いたことがある。   68頁

 と、書いている。そして、フェデリコ・フェリーニの自伝的ともいわれる映画『アマルコルド』について、「やはり北イタリアにながく暮した私にとっては、他の作品にはない魅力があって、登場人物たちの重い地方のなまりが聞きとれるイタリア語にも、いつまでも夜が明けないような濃い霧の中の風景にも、こころがつよく揺さぶられる。」と続ける。
 
 私もフェデリコ・フェリーニでは、この映画『フェリーニのアマルコルド』が気にいっている。サロンシネマで観たかな。眠くはならなかったが、まるで夢の中にいるかのようだった。