伊藤逸平の雑誌『VAN』とカフェ「コロンバン」

 多田道太郎の『物くさ太郎の空想力』を読んでいると、「情報型少年」で森本哲郎さんの太平洋戦争末期の硫黄島がおちた頃のエピソードが出て来る。
 『芸術新潮』2006年10月号で、グスタフ・クリムトの特集があった。その関連でウィーンという都市の歴史を知りたくなって、森本哲郎の『世界の都市の物語8 ウィーン』(文藝春秋)を読む。
 ウィーンの文学カフェとして有名な「グリーンシュタイトル」を訪れて、前世紀末に「若きウィーン(青年ウィーン)」派と称された詩人や作家たちが集まった場所で思いをめぐらせている。ヘルマン・バール、ペーター・アルテンベルク、アルトゥール・シュニッツラーフーゴー・ホーフマンスタールなどが、こういったカフェを根城にしていたそうだ。 
 敗戦後の東京にもパリのカフェ「ドゥ・マゴ」やウィーンのカフェ「グリーンシュタイトル」のような役割を持った店がいくつか存在していた、という。
 なかでも、交詢社ビルに近い銀座通りに面した喫茶店コロンバン」は敗戦直後の一時期に、そのような応接間のような役割を果たしていたと。
 その頃、学生であった森本哲郎さんは学費と食費を稼ぐためにある出版社の求職に応募したら運よく採用されて、間もなく「風刺雑誌」と銘打ったマンガ中心の月刊誌の編集長を任された。その出版社が、しばらくして銀座の交詢社ビルの五階へ移った。

「イブニングスター」社というその出版社は、『VAN』というマンガ雑誌のほかに、『風刺文学』という文芸誌、『黒猫』という推理小説を中心とした月刊誌も出していた。そんなわけで、編集室にはマンガ家を初め、作家や、評論家などが、足繁く出入りした。なにしろ、日本社会の一切が無に帰したのである。だれもが生きるのに精いっぱいだった。戦前の価値観は一挙に崩壊した。身体の糧(かて)を求めることもさることながら、人びとの心も飢えていた。新しい思想、芸術、文学、要するに心の拠りどころを求めて、つぎつぎに雑誌が創刊され、どうにかして新しい精神の世界を生みだそうとしていたのだ。
 みんな話したがっていた。自分の主張や作品を、どんな媒体でもいいから、とにかく発表したがっていた。そんなわけで、原稿を抱えた文筆家やジャーナリストが、連日のように編集室に現われた。私は彼らの応接にいとまなかったほどだ。そして、喫茶店コロンバン」がその〝応接間〟になったのである。だから敗戦直後の一時期、この〝カフェハウス〟は、少なくとも、「グリーンシュタイトル」のような役割を果たしていたと言えよう。  59〜60頁

 ふーむ。伊藤逸平さんが雑誌『VAN』を発行していたイブニングスター社に、森本哲郎さんも居られたことに何か不思議な気がするなあ。