田村隆一の『ぼくの東京』

冬の睡蓮

 快晴で寒さがやや緩む。川を渡っているときに久しぶりに海鵜を見た。一羽で水中に潜ったりしていた。川岸に小さな白いサギも一羽いて、じっとしていた。
 昨日、『ワンコイン悦楽堂』(情報センター出版局)*1を見つけたので、ざっと目を通してみた。後半に高橋源一郎内田樹の対談があり、高橋源一郎の話に、「ああ、やっぱりそうだったのか」と一人納得する。
 この著者の竹信悦夫の書評だが、匿名書評家の「狐」を思い出した。
 それはさておき、高橋源一郎にとって、リチャード・ブローティガンの作品、とりわけ藤本和子の翻訳文が影響を与えているような気がする。この『ワンコイン悦楽堂』は後半にある対談に興味深い発見があった。
 それはさておき、田村隆一の『ぼくの東京』(徳間文庫)*2を読み続ける。この中に所収の「わが幻花行」に、映画監督の鈴木清順に触れているところがあって、あっと声を上げる。

 昭和十年の春、ぼくは小学校を卒業すると、深川の商業学校へ行くことになる。(断っておくが、くれぐれも断っておくが、名監督と云われている鈴木清順氏が、その商業学校の一級下の生徒だったのだ!)
 その商業学校は、元禄時代からの「都市」のゴミを埋めていた越中島という、それこそウメ立地で、商船学校、水産講習所と、わが母校が三軒、ポツンと建っているだけなのである。
 まわりは葦原(あしはら)ばかり。日立の工場があるだけで、日夜、紫色の火花をちらしながら、中国東北部への武力侵攻のためのタンクを、せっせと造っていたものかと思われる。
 当時、中等学校は五年制だったから、ぼくは巣鴨村から、越中島まで毎日通ったのである。
 昭和十一年の二月、大雪の降った朝、ぼくは商業学校の一年生で、市電の窓から、日銀のまえを眺めていたら、ケンツキ鉄砲をかかえた兵隊さんがいたっけ。あれが二・二六事件だということがわかるのは、すこし時間がかかる。
 その時間がかかるうちに、ぼくは少年から青年になってしまって、日本の詩、イギリスの詩、フランスの詩を読んでいるうちに、兵隊さんになってしまって。  249〜250頁 

 ふーん。田村隆一の話によると、一年下に鈴木清順さんがいたんだね。そういえば、鈴木清順の映画『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』を映画館で観たなぁ。イタリアの映画監督のフェリーニに映像の手法が似ているところもある。