荒俣宏の『決戦下のユートピア』

アジサイ

 梅雨空で降ったり止んだりしている。アジサイの花が目に鮮やかだ。
 荒俣宏の『決戦下のユートピア*1(文春文庫)を読んだ。まえがきに、

 まあ、相撲でいうなら、腰を引いて左半身(はんみ)、といったところだろうか。ものごとはすべからく、半身がよい。ゆめゆめ、がっぷり四つ、になど組んではならない――、
 というのが、歴史を相手にするときの、自分流の心構えである。
 もちろん、これは不真面目に取り組め、といっているのではない。立場や都合にだまされないよう、いつも体(たい)を開いて出し投げくらいは打てるような身軽さを確保しておきたい、といいたいだけである。なぜなら、歴史には裏も表もあるから。  3頁

 荒俣さんの身近にいた人や、この戦争を体験した人びとを、戦時中の同時代史料を読むことで、戦争は史観(傍点)ではなく体験(傍点)として捉え直されると書く。

 ぼくは、いつしか、決戦下の日本にも、悲劇とともに喜劇があり、地獄のとなりにユートピアがあったのではないか、と考えるようになった。そうしたら、戦時中の同時代史料を読むことに無上の喜びを感じるようになった。  6頁

 身近にいた三人とは、荒俣宏さんの英文学の恩師、平井呈一という文人。もうひとりが、「手前味噌ながら、わが父は、支那事変と大東亜戦争の両方に駆りだされ、中国から東南アジアを転戦した。当時のことを、おどろくほど鮮明に記憶していて、シンガポールではどこそこの通りにこんなものがあった、と町内のことのように昔話をしてくれた。」というお父上。三人目が、ラバウル戦線に出征した水木しげるさん。その戦地ラバウルへご一緒したことがあるそうだ。そのときにお聞きした水木さんの戦争中の話を無垢(むく)な気持ちで話されたことに、荒俣さんは驚いてしまった。
 「貯蓄せよ報国のあかし」を読んでいると、貯蓄奨励局次長は貯蓄キャンペーンで、「日米交換船」で帰国したあとの「交換船」の人の語った言葉に触れて語っている。朝日新聞昭和十七年九月十四日付の記事が引用されていた。銃後の国民に貯蓄させるためのキャンペーンで・・・。この当時、都市部では、貯蓄増加率が伸び悩み、逆に都市の人びとや金満家は、せっせと消費していたのであるという。