1日、日の出前の午前5時、南の空を眺めると、薄い曇り空であるが、月と木星とが上と下に並んで光っていた。
ふたつの接近した天体が見られるのは珍しい光景だ。夜明け前の心地よい風が吹いている。静かな一日の始まりである。
3日、午前5時30分、下弦の月が南中していた。高度は高い。
薄曇りで月のみが見える。早朝が曇っていたが、セミが鳴き出して来ると気温も上がり、最高気温35℃を超える蒸し暑さがつづく。
池に葦の先にチョウトンボが止まっていた。チョウトンボがひらりと離れるとシオカラトンボがやって来てそこへ止まった。退いてくれるようにチョウトンボがシオカラトンボへぶつかるように接近するも退かないので、あきらめてチョウトンボは別の蓮(はす)の枯枝の先に止まる。
きびしい戦況のなかでも、辺境のインテリゲンチャたちの知的活動はつづいていた。張家口在住の日本人のなかで、多少とも生物学関連の仕事をしている人たちがあつまって、学会をつくろうということになった。その発起人会が八月八日にひらかれた。場所は遠来荘であった。(中略)
会合をおえて、わたしたちは遠来荘をでた。そこへ政府関係のひとがニュースをもってきた。ソ連が参戦した、というのである。そして、ソ連軍と外モンゴル軍の戦車隊が、すでに国境を突破して内モンゴル領内にはいった、というのである。
(中略)
日本からのニュースはきちんとはいっていた。新聞や放送のほかに、蒙古政府系の情報も口コミでながれた。そして、二日後のソ連参戦である。これは日本経由ではなく、蒙古政府系の情報であった。
モンゴルのあの大草原には、戦車の進行をふせぐ障害物はなにもない。国境を突破したかれらは、たちまちモンゴル草原を横断して、モンゴル高原の南縁に達するであろう。草原の南縁部には、駐蒙軍すなわち日本軍が展開して、ソ連・外モンゴル軍の戦車を迎撃するかまえであるときいた。平和だった張家口にも、にわかに戦火がせまってきたのである。 97〜98ページ
張家口からの梅棹さんらの脱出行の様子。
張家口から北京までは、通常なら七時間ぐらいで到着する。しかし、わたしたちの脱出行は四日かかった。無蓋貨車で三晩すごしたことになる。雨の夜もあった。シーツをひっかぶって寝た。 (中略)
列車はときどき何時間もとまった。先行列車の機関車が脱線しているのである。八路軍の妨害工作らしい。それをとりのぞいて、後続の列車はまたはしった。
八達嶺をこえて、南口あたりであったかとおもう。鉄道に平行している街道を、日本軍のトラック隊がたくさんはしっていた。モンゴル高原の南縁でソ連・外モンゴル軍の戦車隊を阻止していた駐蒙軍のようであった。かれらがささえているあいだに、われわれはぶじ張家口を脱出できたのであった。あとできくところによると、かれらも霧にまぎれてじつに巧妙に脱出したのだという。トラック隊はおおきな日章旗をひるがえしていた。トラック隊と無蓋貨車とが平行してはしっていると、どちらからともなく、万歳の声がわきあがった。われわれは万歳をくりかえしながら、ならんで山をくだって、華北の平原に達した。 105ページ

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