中村正常の文学志向、文学活動はどんなものだったのか。
中村知会著『中村さんちのチエコ抄』に、後年、「芸術至上主義文芸」のインタビューに答えた中村正常の話を、妻の知会さんが引用しています。
「自分の書くものを、〈ナンセンス文学〉と名づけたのは、新居格(にいかく)と大宅壮一でね、私自身は、〈弱者の文学〉と言うべきかもしれない、と思っていた。ああいう時代の中で生きる〈善人〉とでもいうか、そんな人間像なんですよね。主義主張を声高に、意志を貫くほどではなく、なんとなくああいうふうになってしまったわけだから、時局が変わると、すぐに押しつぶされて、終わりになってしまった。ちっとも反抗する気なんかないんですからね」
「劇団〈蝙蝠座〉もね、ちゃんとした持論があってやったんじゃないんでね。親友の今日出海が、『やろう、やろう』と言ったんで、井伏、舟橋、小野、坪田、西村が集まって、遊びごころでやったもんだから、一回公演しただけで、終わりにしちゃった」*1 73ページ
この〈蝙蝠座〉に、今日出海、井伏鱒二、舟橋聖一、小野松二、坪田勝、西村晋一、そして中村正常が関わっていたようです。
昭和四年、中村正常の小説「マカロニ」が「改造」に一等当選して、中村正常の書く小説は〈ナンセンス文学〉と称されてもてはやされるようになるわけです。
『群像』2001年4月号に掲載の多田道太郎の「転々私小説論」(三)「飄逸の井伏鱒二」に、井伏鱒二は集団で仕事をやるのが得意だった、という指摘があります。
井伏鱒二が中村正常と二人で組んで、共作したという話であります。
昭和五年の大不況の時代に、井伏さんは中村正常と組んで「ユマ吉とペソ子」のシリーズを書きます。
それと、中村正常の書くものを、〈ナンセンス文学〉と名づけた大宅壮一のことにもふれています。
昭和五年の大不況の時代に、出てきた井伏さんは中村正常と組んで「ユマ吉とペソ子」のシリーズを書きます。(中略)中村正常はおもしろい人で、中村メイ子のお父さん、神津カンナのおじいさんで、いい子供たちにも恵まれました。「ユマ吉とペソ子」は、ナンセンス物といわれるものです。井伏は集団で仕事をやるのが得意だった。集団創作という理想を掲げた花田清輝を先取りしています。
当時左翼だった大宅壮一は、翻訳工場をやっています。一品生産でこつこつ翻訳していたら間に合わぬというので、翻訳工場をつくった。現実に、そういう翻訳工場的なるものは戦後にどんどんできたわけです。翻訳についても、『ドリトル先生「アフリカ行き」』が共作です。石井桃子が発見して下訳をしたけれども、何かの都合でできなくなって、井伏さんがおもしろく手を入れて、すごくいい童話になった。 『群像』2001年4月号 215ページ

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