『中村さんちのチエコ抄』と中村正常のこと5

 中村知会著『中村さんちのチエコ抄』の「二章 私の青春」に、中村正常について次のように述べている箇所があります。
 

正常は、結婚するまでは「蝙蝠座」の作家として脚本を書きながら、いくつかの出版社からの注文に応じて、けっこう作品を残しています。
 正常の作品は、カタカナで風変わりな題名のものが多く、それらの主人公の〈ボク〉は、母親の愛情を知らずに育った正常自身であり、〈彼女〉は、初恋の女性だった「蝙蝠座」の女優の高見沢富士子さんの面影だったようです。  69ページ

 「蝙蝠座」の女優陣には阿部艶子(芸名・三宅艶子)、毛利菊枝、高見沢富士子、小百合葉子といった人たちがいました。
 知会さんは、「蝙蝠座」の第一回の公演で主役の阿部艶子さんの相手役を演(や)ることになり、そのメーキャップを、メーキャップの上手な滝沢修さんに頼み込み、顔をつくてもらったといいます。
 当時、滝沢修はメーキャップにおいて彼の右に出る人はいなかったそうです。
 《とはいうものの、例の〈パピリオ〉の文字をデザインなさった佐野繁次郎さんは、滝沢さんとはまた違った味のメーキャップをなさっていました。》  60ページ
 「蝙蝠座」の女優陣の一人、高見沢富士子の高見沢潤子著『兄小林秀雄との対話』(講談社現代新書)を読んでいると昭和三年の春三月、大阪から兄小林秀雄が妹へ宛てた手紙が引用されていて、それには小林秀雄が翌年の昭和四年に『改造』に当選した『様々なる意匠』に取り掛かっていた時期だったことが手紙の文面で分かります。
 それと、富士子さんが、兄の小林秀雄へ中村正常に頼まれて原稿の依頼を手紙でしています。
 その箇所をすこし引用すると、

「伯父さんに、いっさい事情を話して、おいてもらうことにした。心よく承知してくれた。お母さんからも、ちょっと手紙を出しておいてくれるといい。奈良にでも住もうかと考えている。奈良だと、一ヵ月三十円あればたりるのだ。家賃なんか、五、六円だ。
 昨夜は、西村の叔父さんといっしょに芝居をみた。昨日、『歎異抄』(たんにしょう)をおくっておいたよ。
 洋服がほしいんだがな。高見沢さんに、中野の家の留守をうかがって、とってきてもらえないか。」
 高見沢(わたしの夫、田河水泡)は、そのころ、兄があの女性と同棲していた中野の谷戸の家の、すぐ前の家に住んでいたのである。
 それからまもなく、兄は奈良へ移った。そのころ、奈良に住んでいた志賀直哉さんにも、ずいぶんおせわになったらしい。
 そのうち、わたしの結婚もきまり、九月には、高見沢と結婚式をあげることになった。七月には、兄から、わたしたちの結婚を喜んでくれる手紙がきた。その一部が、「ある春の日に」に引用した手紙であるが、その前半には、こんなことが書いてある。
「葉書ありがとう。
 洋服はいらない。蚊帳(かや)はまだ買わない、金がなくなってしまったのでおくってください。
 毎日暑くて閉口だ。朝早く起きる癖をつけようと思っているのだが、どうも駄目で、昼頃目をさます。
夜になるまで、暑くてなにもできない。
 一つ大きなものを書きたいので、こまこました原稿は少し困るな。岸田氏がどんな雑誌を出すのか知らんが、まあ書けたら書こう。」
 この大きなものというのは、『改造』に当選した『様々なる意匠』のことだろう。この岸田氏の雑誌というのは、岸田国士が中心になって、岩田豊雄・関口次郎らが、昭和三年十月から、昭和四年七月まで発行した『悲劇喜劇』という月刊の演劇雑誌である。これを編集していた中村正常さんに頼まれて、わたしが手紙で兄にたのんだものであった。兄はこの時すぐには書かなかったが、やっと昭和四年三月号に、ヴァレリーの『詩学』を載せている。  212〜214ページ

 知会さんと出会う前に、中村正常は『悲劇喜劇』という月刊の演劇雑誌の編集をしていたようです。