大都映画の面白さ4

昭和映画史ノート

 内藤誠著『昭和映画史ノート』に、昭和十年(1935年)に大都映画に入社した俳優の水島道太郎へのインタビューで、吉村操監督の映画『地平線』(1939年)の撮影が大変だった事情が語られている。
 原作・監修が大宅壮一で、満蒙国境の大平原で二週間のロケーション。
 水島道太郎は考古学者・鳥居龍蔵博士(藤間林太郎)の助手役であった。
 ロケーションは困難を極めた。
 河合徳三郎を父に、モダンなお嬢さんタイプの役柄で売り出した大河百々代が十八歳で夭折したのも、この撮影中に駱駝(らくだ)から落ちたのがもとだと水島氏が語っていたという。
 大宅壮一の『戦雲下の蒙古草原』によると、当時のロケの二週間をテントや蒙古包に住み、ラマ廟に宿を求め、牛糞での煮炊き、射止めた鴨の肉、蒙古人が持って来てくれた羊の水炊きに舌鼓を打ち、撮影の旅を続けたそうだ。
 撮影時にノモンハン事件が起きたが、スタッフは知らずに奥地のロケにトラックを走らせていたのであった。*1 

昭和映画史ノート―娯楽映画と戦争の影 (平凡社新書)

昭和映画史ノート―娯楽映画と戦争の影 (平凡社新書)

 

*1: 注記、『戦雲下の蒙古草原』は、『大宅壮一全集 第十七巻』(蒼洋社)一九八二年、所収。