多川精一著「戦争のグラフィズム」を読む2

 ミツバツツジが咲いている。淡い紫の花が横向きで雄しべが五本、先が上向きになっている。

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ツツジ科の落葉低木。関東・中部地方の山地に自生。葉は菱形に近い卵形で、枝先に三枚ずつつく。四、五月ごろ、葉の出る前に紫色の漏斗状の花を横向きに開く。庭木にする。  『大辞泉

 多川精一著「戦争のグラフィズム」を読む。

 「終章 一九四五年秋」の《悲劇、東方社『FRONT』の歴史》からの引用続き。

 今、振り返ってみて、東方社という組織の本質は技術者集団だったのではないかと思う。原弘や木村伊兵衛はもちろん、この組織をつくった岡田桑三も、岡田のやめた後の混乱期を切り盛りして戦後まで中心となって働いた中島健蔵も、ものを創ることの好きな、いわば第一級の職人であった。彼らはもともと文化としての写真や映画、そして出版物をつくることに打ちこんできた人たちだったから、社会が戦争一色に塗りつぶされていく中で、銃をとることを強制されるより、たとえ軍の組織であっても、そうした仕事ができる立場を選んだのは、あの時代としては無理のないことであった。

 東方社が技術者集団であったことは、原と木村の二人が創立のときから第二次文化社の消滅にいたるまで、変わることなく組織の要(かなめ)に位置していたことでもわかる。またこの時期に二人に師事した若手の写真家やデザイナーも、ほとんどが最後までやめることなく、ここで身につけた技術で、戦後、それぞれの分野で仕事を続け活躍した。このことは組織の指導者であった二人が、同時になみなみならぬ技術者であったことを証明するであろう。  238~239ページ

 

 

戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々 (平凡社ライブラリー)

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戦争のグラフィズム―回想の「FRONT」

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焼跡のグラフィズム―『FRONT』から『週刊サンニュース』へ (平凡社新書)

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