秋山祐徳太子『天然老人』(アスキー新書)の巻末の対談が赤瀬川原平とだったが、ブリキ男の方に肩入れしながら読んだ。
老人力よりも天然のほうに自在さがあるような気がしないでもない。
読んでから気づいたのだが、あと高梨豊さんがおられる。お二人はライカ同盟のお仲間だったのだ。
秋山祐徳太子さんは、あるギャラリーで、お姿と声を聞いたことがある。よく通る声だった。
それはさておき、森毅の『もうろくの詩』(青土社)を、読みはじめる。
天然老人のあとは、もうろくの詩(うた)。
表紙は三味線を弾く森さんの似顔絵と、そばに猫が踊っている。
その心境は、冒頭の文「はじめに」から引用してみる。
もう八十年も生きたから、人生の物語も終幕。自分から幕を閉じる気はないから、もうろくしてそのうち、あ、死んじゃったみたい、てなことになりそうだけれど。
知人もよく死ぬ。昨年でも、多田道太郎、河合隼雄、小田実など。彼らは書いたものが残っているので、それを読みなおして対話できる。別に書いたものがなくとも、思い出の物語と対話できる。
もっとも、後人になにかと対話の材料を提供しようとも思わぬ。むしろ、そうか死んだのかと、消えるほうが粋だ。 7ページ
「あとがき」からも引用すると、
「もうろく」というコンセプトは、鶴見俊輔さんによる。とりとめもなくお喋りしていたころに学んだ。ときに萩原延壽とか、河合隼雄とか、他の人もまじったけれど。そのときの河合の話では、ユング派の臨床心理家になるためには、スーパーヴァイザーと数百時間のとりとめもないお喋りを必要とするのだそうだ。鶴見さんも、二十代で京大に来たころは、同世代の梅棹忠夫さんと、いつもお喋りしていたらしい。(以下略) 169ページ