「言葉の人生」

 片岡義男の『言葉の人生』を読む。

《一九五〇年の「バッテンボー」からさかのぼること二年、一九四八年、昭和二十三年、僕は疎開先の山口県岩国から広島県呉へ移っていた。九歳になって半年後の夏の終わり、広島リッツ劇場という映画館の前に僕たち子供が集まり、その日の半日をどう過ごすか、相談していた。大敗戦から三年後、占領下の日本の街に、アメリカ軍の兵士たちは景色としてなじんでいた。僕たちがいた映画館の前を、アメリカ軍のジープが徐行していった。
 それを見た子供の一人が、ジープに向けて斜めに駆け寄り、「チョコレート・ワン・サービス」と叫んだ。ジープのうしろを走りながら、彼はおなじ言葉を何度か叫んだ。チョコレートをひとつちょうだい、と日本の子供たちにせがまれていることにまったく気づかないまま、アメリカ軍のジープは走り去った。

 当時の子供は、「ギヴ・ミー・チョコレート」とは、言いたくても言えなかった。英語の構文を知らなかったからだ。彼にできたのは、「チョコレートひとつちょうだい」という日本語の語順どおりに、「チョコレート・ワン・サービス」と、英語の単語を当てはめていくことだけだった。》 10~11ページ

《数多くのカタカナ語と日本社会とのこの上ない固い結びつきを俯瞰すると、その手前のほうでひときわ大きく立ち上がっているのは、ビル、ライス、テレビの三語だ。いまに続く戦後の日本語の基礎を作ったのは、この三つの言葉とそれぞれが持った実体ではなかったか。》  11ページ

 

 

 

言葉の人生 | 左右社 SAYUSHA