ザクロの実が色づく季節になった。ザクロの実が鈴なりである。触ると実は硬かった。熟すと実が裂ける。
ミソハギ科の落葉高木。葉は長楕円形。六月ごろ、筒形で多肉質の萼(がく)をもつ橙赤色の花をつける。果実は球形で、紫紅色に熟すと裂けて種子が現れる。果実の外種皮を食用に、また樹皮を駆虫薬に用いる。ペルシア地方の原産。せきりゅう。じゃくろ。 『大辞泉』
「なまなまと枝もがれたる柘榴かな」
飯田蛇笏の俳句で、昭和二年(1927年)の句です。
インドネシア映画特集で、リリ・リザ監督の映画「虹の兵士たち」(2008年、インドネシア、125分、カラー、Blu-ray、日本語・英語字幕)を観る。The Rainbow Troops。
パンフレットより、
1974年、スマトラ島南部のブリトン島にあるムハマディヤ小学校は閉校の危機にあったが、始業式当日、新入生10人が集まり、なんとか存続することとなる。集まったのは、文学好きのイカルなど、個性豊かな子どもたちばかり。校舎や設備は老朽化し、学校は常に資金難だが、校長と新任教師ムスリマたちは日々奮闘していた。インドネシアで興行収入第一位を記録した、リリ・リザの代表作。(作品提供/福岡市総合図書館)
冒頭、小さな小学校、始業式の日、校長や教師らは新入生がやって来るかどうかで、気をもんでいた。もしも新入生が定員に達しなければ、廃校になると決まっていたからだ。その瀬戸際の日の朝、いくら待っていても新入生が集まって来ない。待ちくたびれていた、その瀬戸際に一人二人と新入生たちが集まりだした。その緊迫感で一気に物語に引き込まれるのだった。
関川夏央著『七つの海で泳ぎたい。』を読む。
「どうせ乗りかかった汽車じゃないか」「フランスへ行きたしとは思わず」の二篇から「どうせ乗りかかった汽車じゃないか」で、パリのオーステルリッツ駅から急行列車でボルドーのボルドー・サン・ジャン駅に到着。
その後、
《二日めの夕暮れどき、中部スペインの小駅、メディナ・デル・カンポに着いた。駅名の字義どおり、原っぱの真ん中だった。マドリード行きとリスボン行きがここで分岐する。ジャンクションという以外にはなんの意味もなさそうな駅だった。
駅前には倉庫が二棟、その向こうは波打つ麦畑の、果てしないひろがりだった。ざわわ、ざわわ、と麦畑をわたる風の音がした。はるか遠くに崩れかけた教会の鐘楼が見えた。
レオン地方の典型的な田園風景に、日本人旅行者はたじろいだ。》
《二軒めのホテルに空部屋を見つけた。》
そのホテルで同行のカメラマンと筆者の会話。
《しばし豊饒な沈黙がつづいた。
きみはヘミングウェイを読んだことがあるかね、とわたしは尋ねた。
高校のときに五ページ読みました。と彼はいった。それがどうかしましたか。
ヘミングウェイの短編に、スペインの原っぱの真ん中の駅で女と別れる話がある。遠くには白い象の背中のような丘が見える。アメリカ人の男と女が、小さな駅に降り立つ。駅舎には一軒のバールが隣接している。その入り口にはビーズのカーテンを垂らしてある。彼らはそこで乗り換えるんだ。ジャンクションに列車が着くまでの男女の会話だけでできている。(中略)
は?
モデルはさっきの駅じゃないかと思うんだ。実に感慨深い。》
《はいはい。彼は指先についた鼻毛を風に散らせた。ところで、どういう方針です? 明日は。
七時五分の普通列車でポルトガル国境まで行く。
やっぱり靴下の行商人みたいですね、おれたち。
ひとは行商人のように生きるべきなんだぜ。
わたしは彼におごそかに告げた。》
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784140818718
朝は曇り、午後より晴れ上がる。最高気温32℃。街路樹のソヨゴの樹が小さな実を付けていた。《風がそよぐと音がする意、ソロバンの玉に利用。フクラシ。(もちのき科)》と名札あり。
モチノキ科の常緑低木。山地に自生。葉は楕円形で堅い。雌雄異株で、6月ごろ白い花が咲く。実は丸く紅色に熟す。葉から褐色の染料をとり、材でそろばん珠などを作る。ふくらしば。 『大辞泉』
新刊の森まゆみ著『昭和・東京・食べある記』(朝日新書)で、イタリア料理店「文流」についての聞き書きに注目したのだった。イタリア書房のことなどで。
最近の森まゆみさんの本で『しごと放浪記』、『路上のポルトレ』が興味深かった。『路上のポルトレ』は、副題が《憶い出す人びと》とある。
訪問記のひとつに、東京から豊橋に一泊して森さんは渥美半島の杉浦明平を訪ねている。立原道造について森さんの聞き書きをとても興味深く読んだ。その風貌や交友のエピソードを杉浦明平が語っている。
森まゆみ『路上のポルトレ── 憶いだす人びと』 | 羽鳥書店 (hatorishoten.co.jp)
「フィルムデーズ2022 映画でつながるヨーロッパ」映画祭の一本、ジョアン・ボテーリョ監督の映画「リカルド・レイスの死の年」(2020年、ポルトガル、132分、白黒・カラー Blu-ray)を鑑賞。
原題:O Ano da Morte de Ricardo Reis/The Year of the Death of Ricardo Reis.
字幕は日本語と英語の字幕。
リカルド・レイスは友人フェルナンド・ペソアの訃報に接し、リオデジャネイロから16年ぶりに帰郷。欧州にファシズムが台頭し、ポルトガルでも独裁体制が敷かれ始めた時代。そんな鉛色の時代にレイスは現実と夢想が溶け合ったかのようなリスボンを彷徨い、白昼夢のような光景のなかでペソアと邂逅する。今年生誕100年のノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴの同名小説の映画化。
白黒(モノクロ)映画。冒頭、雨のリスボンの街。道行く人々。昔、政治的な理由からブラジルへ逃れた男が16年ぶりにポルトガルへ帰って来た。主人公のリカルド・レイスである。彼はリスボンのホテルに滞在する。同宿していた裕福な親子と知り合う。父親と娘の親子。娘は腕が痛むと訴え、医師のレイスに診てもらい親しくなる。ホテルのメイドともレイスは親しくなる。レイスはペソアの亡霊とホテルの部屋で会話をする。白昼夢のような幻想的なシーンが印象的だ。
上映前に、ポルトガル大使館の女性からこの作品について解説があった。この映画をめぐり、1936年のポルトガル社会の政治的な状況、フェルナンド・ペソアについて詳しく当時の時代背景が話された。映画の上映後に、再びこの映画「リカルド・レイスの死の年」の撮影されたリスボンの街のロケ地の説明があった。説明をされた方はこの映画の日本語字幕を担当されたという。
関川夏央著『七つの海で泳ぎたい。』を読む。
「思い出に生きる国」「どうせ乗りかかった汽車じゃないか」「フランスへ行きたしとは思わず」「第三のコリアン」の汽車旅紀行の中でも、「どうせ乗りかかった汽車じゃないか」「フランスへ行きたしとは思わず」の二篇に、イベリア半島への行きと帰りの駅としてパリのオーステルリッツ駅に着いてこれからどうするという思案を巡らす箇所がある。
シャルル・ド・ゴール空港から次のようなコースで移動する。
《立ちあがり、荷物を蹴飛ばしながらバス乗り場まで行った。凱旋門の前でバスを降り、メトロの階段をくだった。バスティーユで乗り換え、一時間半後には南西方面へのすべての列車が発着するオーステルリッツの駅に着いた。わたしたちは疾風(はやて)のようにパリを横断した。
わたしは時刻表を眺めた。十四時二十四分の急行列車がある。それでボルドーまで突っ走っちゃうってのはどうだい?。
いい考えです。(中略)
わたしはボルドーまでの車中、トマス・クック時刻表を読みつづけた。印刷物をこれほど熱心に読むのはひさしぶりだ。なにしろ今後何日間か、リスボンまでのわたしたちの方針を決定するための唯一の手がかりなのだ。
明日はどうするんです。と写真以外には活躍の場がない彼が尋ねた。
わたしは答えた。
いまは話かけないでくれ。数字がこぼれちゃう。
好きなんですねえ、時刻表が。
『点と線』以来、時刻表の解読は日本人のたしなみなんだぜ。わかるか。
わかりません。
ボルドー・サン・ジャン駅には十八時三十分の到着だった。成田を出てから三十二時間たっていた。しかし、すでにわたしたちは時間にも距離にも無感動だった。あまりにも多くの乗り物に乗り、あまりにも急激に遠くに来すぎたためだった。自分のいまいる場所と立場をつかみかねた。むかしからこのあたりで靴下の行商をしている、そんな気分だった。》 118~120ページ
絶版になっている文庫本の関川夏央著『七つの海で泳ぎたい。』を読んだ。スリランカ、モルディヴ、マニラ、ルソンからミンダナオ、ジャワ、ポルトガル、イベリア半島、パリ、ブエノスアイレスからパラグアイ、リオ・デ・ジャネイロ、サンパウロ、吉林省延辺朝鮮族自治州・延吉と八〇年代にたびたび関川夏央は外国へ出かけた。
あとがきを読むと、このシリーズは一九八四年秋から一九八八年秋まで、断続的に『週刊宝石』誌上に掲載された。カメラマンは住友一俊。
「思い出に生きる国」【ポルトガル】
冒頭の文を一部引用する。
《いうなれば哀愁の港町である。ヨーロッパが力尽きて大西洋に崩れ落ちるところ、リスボンである。
旧市街のアルファマは丘また丘のつらなりであるリスボンの街区の、東にテジョ河を見下ろす斜面にぴったり貼りついている。十七世紀以来、街のたたずまいは変わらない。真ん中がすりへった石畳の細い坂道を、ファドの嘆き節が這いのぼる。外国人の抒情の街角は現地の貧民の集い棲む路地裏でもある。それにしても今夜はすごい人出だ。煙がやけに目にしみる。》 108ページ
アルファマに間口二間の簡易食堂の店を持ったマシミノ・フェルナンデスとしっかり者の女房の店の話に筆者は耳を傾ける。わびたアルファマのさらにわびた店の主人を感傷的に書いているのだった。
ポルトガルの北の果て、「山のかなた」(トラス・オス・モンテス)という名の県の田舎町ムルサにホテルをとった。「山のかなた」県の、さらにかなたへと分け入った川の流れの削りだした谷をのぼり、さらに支流の谷をのぼりつめた。たどり着いた村の中央部に一本の鎖があり、鎖が国境。
向こうがスペイン、手前がポルトガル。
この村で探索したかったのは地方言語のミランダ語であった。
しかし、次のように語られている。
《一家の話から、わたしたちが探索したかった地方言語のミランダ語は、すでに事実上消滅したようだと知った。努力は報われなかった。スペイン語とポルトガル語の混血語というか重層語である。ありていにいえば方言である。鹿児島弁よりも方言個性は弱いかもしれない。日本にはまだ紹介されていないから、「発見者」として自慢して歩こうかともくろんでいたのだったが、しかしこの国境の村、リオ・デ・オノールを訪問した史上初の東洋人の栄誉を獲得しただけでもよしとしようではないか、とわたしたちは慰めあい、シナ人のように明るく寂しい笑いを交わしたのだった。》 114~115ページ