『政岡憲三とその時代』を読む2

 続けて、萩原由加里著『政岡憲三とその時代』を読む。
 政岡は美術監督、監督、役者、カメラマンと劇映画の世界で職を転々としては挫折していた。
 新しい道を探さざるをえなくなり、政岡が目をつけたのが漫画映画だった。
 《一九三〇年八月、政岡は京都の北野天満宮の近くの紙屋川町にあった自宅をスタジオにして、漫画映画の第一作『難船ス物語第一篇・猿ヶ島』の制作を開始する。》63ページ

 関東大震災で東京の撮影所が被害を受けたので京都に撮影所が避難して来ていた一九二〇代は京都での映画撮影は盛んだった。


 《一九三〇年代、京都が漫画映画制作の拠点になったのは、もとから実写映画の制作が盛んだったことに起因する。さらに、三〇年代はじめに訪れた日本映画の大きな変化、すなわちトーキー化の波によって、トーキー漫画映画が一躍世間の注目を浴びたことで、J・O・スタジオを中心に、京都での漫画映画制作が盛んになった。京都での漫画映画制作はトーキー化と密接な関係をもっていたのである。
 政岡の作品の独自性を、京都という地域性にだけ求めるのには無理がある。このような背景があったからこそ、政岡は京都を拠点に漫画映画の製作を続けていったのである。》78〜79ページ

 一九三〇年代なかばの京都には、J・O・スタジオ・トーキー漫画部、日活の漫画部、政岡映画美術研究所の三ヶ所でトーキー漫画映画を製作していたという。*1
  ところで、政岡の自宅をスタジオにした漫画映画第一作のタイトルが興味深い。
 『難船ス物語第一篇・猿ヶ島』というタイトルなのだが、これはナンセンス物語とも読めるのではないだろうか。

*1:一九三三年、市川崑はJ・O・スタジオ・トーキー漫画部に入っている。